「左利きの日」と幼少期の思い出

今日ではないですよ。昨日、8/13は「左利きの日」だったらしいです。

生まれてから28年、物心ついた時から左手で箸を持ち、字を書き、ボールを投げてきた生粋の左利きである僕も今のいままで全く知らなかった「左利きの日」。

 

その存在を知ったのはこのツイートからだった。

https://twitter.com/debu_dori/status/1558648352882843654?s=21&t=1GEHhaRUdH9muJDlZ4HSbw

左利きだからこそわかる"日常の不便あるある"がぎゅっと凝縮された内容だった。

(特に手帳型の携帯カバーは欲しいのに左利き用が無いのである!!!)

 

大人になったいまだからこそ、利き手を始め、声や背丈などの体質に関しては"よそはよそ、うちはうち"といった割り切り方ができていて、それが普通だと思う。

けれど小学校の頃を思い返してみると、左利きなんてクラスでも自分含めて数人しかいなくて、周囲の右利きとの違いを感じ、勝手に負い目を感じていたと思う。

 

特に顕著だったのは書道の授業。この時だけは"右手で書きなさい"と指導されていた覚えがある。当時は"先生がそう言うから"と従って、右手で下手くそな字を書き、クラスの後ろに掲示されては右利き勢との格差に恥ずかしくなったのを今でも覚えている。

たまたま僕は"下手くそだから虐げられる"と言った経験はなかったが、もしあの頃"自由に、好きなように"書かせてくれるような環境だったのなら、協調性に囚われた引っ込み思案の性格にならなかったのかもしれない。

(冗談です。書道の授業のせいで性格が変わったわけではありません。笑)

 

15~20年近く前の話になるので、今の教育現場は変わっているのだと思う。多様性が叫ばれている現在、変わっていないと時代錯誤だとは思うが、変わっていることを信じたい。

 

 

圧倒的マジョリティである右利きの人にはなかなか理解されないかもしれないが、先のツイートにある通り、利き手の差異には日常の小さな不便が溢れている。

むしろ不便だけで済めばいいのかもしれない。

書道然り、"右利きこそ正義"といった具合に矯正することはなく、どっちの手を使っていようが、いつ何時でも許容してもらえたらと思う。結構幼少期の"利き手ハラスメント"(略すと"利きハラ"かな?笑)は少なからずその後の考え方に影響があると思うから。

 

……締まりのない文章になりましたが、以上、左利きからのお願いでした!

あと…あわよければ、携帯アクセサリー会社の各社様方…左利き向けの手帳型携帯カバーを出してください。これも一部の左利きが求めています…

 

それでは、また。

 

2022/8/14 うめおにぎり